届いたのは戦死の報せだった
8月、お盆で帰省したとき、母親からよく聞いたもんだ。
1945年、母親が少女の頃、いわおさん(臼淵磐大尉)の妹さんが母親の家(能登半島の山奥)へ疎開していた。親戚なのだ。
妹さんは類い希なる美しき少女だったという。
ある日、妹さん宛てに電報か何か届いた。
見るや、妹さんはそれを握ったまま、たーっと駆けだした。
どうしたんやろ、母親は見ていたそうだ。
妹さんは、田んぼの向こうの川のところまで駆け、そこに長く立ち尽くしていたという、長く。
届いたのは、兄さんの戦死の報せだった。
母親(当時は女学校の少女。「みっちゃん」と呼ばれていた)は、輪島市の軍需工場へ動員されていた。戦闘機のなんだっけ部品をつくっていた。
8月15日、みっちゃんは軍需工場で「玉音放送」を聴いた。
作業はなくなり、みな帰宅することに。
帰宅すると、大勢が待ち構えていた。
家にラジオがあり、大事な放送があるというのでみんな集まって聴いたが、感度が悪いうえ言葉が難しく、よく意味がわからんかった、みっちゃんならわかるはずや、と。
日本は無条件降伏したのだと伝えると…。
みんな叫んで泣き伏し、「うそや!」と言う者もいたそうだ。
そんなみっちゃんも、何年か前に亡くなった。
死んでいった人たちを、思い出す、お盆。
2024年7月11日追記: ブログの残り容量がヤバイことになり、この記事の画像を削除しました。
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